なんだかとりとめのないことを考えたりしています。代々木のドコモビルが飛び立ったらどうしようとか(笑)、ほんとにどうしようもないことから、人間は何のために生きているのか、愛って何なんだ、とか、シリアスなものまでいろいろです。答えが出るはずがないのにねえ。
心と躰の内側での最近のブログ記事
いやあ、最近物忘れがひどい。たぶん、いつもの薬のせいだと思う。正直寝る前にしたほとんどのことを覚えてないありさまです。なんとかならないものかしら。
半年ぶりの社会復帰でございます。正直、体力的にしんどい状態です(笑)。簡単に言うと、マーケティングのお仕事です。学生時代にかじった統計解析を使うので、前任者の引き継ぎがてら、頭の深〜い部分にいってしまった知識を無理矢理引っ張り出す作業。なくした記憶を取り戻すのは大変ですよ。
今のお仕事、待遇も組織も前の会社よりも全然いいのだけれど、一つ問題点が。Windowsを使って作業をしないといけないんですよ...。Accessと特別なソフトウェアでスクリプトがくんであるので、こればっかしはMacintoshで、というわけにいかないのです。ずっとWindowsで作業するのって、疲れるんだよな。
というわけでなんだか肩がバリバリに張っています。。。まあ、なんとかがんばろう。
明日から、新しい職場で仕事をします。正直、社会復帰できるのか怖いです...。がんばってきます。
今日はお昼に都内に出て食事をした後、午後は市役所のハローワーク出張コーナーに行って職探しをしてきました。
いままでやっていたWeb制作系の仕事とか、大学院時代にかじった調査・研究業の方を中心に検索したんだけど、後者の方はあんまりないなあ。Web制作の方はかなりの数の求人が載っていたけども、零細企業が多かった。
いや、別に零細がいやだとか言うわけではないのだけれど、ある程度人数がいて、職分がはっきりしている職場の方が働きやすいから、どうしても二の足踏んでしまう...。
ハローワークのほうは、オンラインで求人情報を公開しているので、わざわざ三鷹まで行かなくてすむのはありがたいんだけど、せっかくおもしろそうな求人があっても会社の紹介文が少なすぎる...。結局は印刷して家に持って帰り、自宅のMacからどんな会社なのかを調べることになっちゃんだよな。ハローワークのPCから直でインターネットにつなげるといいんだけど、システムがWindowsベースだから危険かもな...。
まあ、腰をすえてゆっくりと探していこうと思います。
のっけから引用です。
Living In A Material World
And I am A Material Girl
You Know That We Are Living In A Material World
And I am A Material Girl(わたしたちは)物質の世界に住んでいる
だから私は物質のような少女
知ってるでしょ、わたしたちは物質の世界に住んでいる
だから私は物質のような少女
マドンナのヒットシングル、『Material Girl』です。物質社会への警鐘として歌われたポップソング。
最近、母親の体の調子が悪く、家事を僕がやっている。無職だし(笑)。はっきりいって、かなりしんどい。大変。今更ながらに、僕が小さい頃から家事をひたすらし続けてきた母親はすごいと思った。今の僕は無職で暇だから、なんとかやっている。しかし、仕事を抱えながら家事をやるとなると...、考えたくもない。少なくとも僕にはできません。ギブアップです。
そんな折に、親戚のおばさんがきた。当然話は、「家事は大変だ」という話になる。しかし、そのおばさんの息子は、「男は外で働いているんだから、女は家事をやるのは当然だ」と言い切ったらしい。それを言える神経もすごい(笑)が、家事の経験がないから言えることだと思った。「外で働いてお金を稼がなくていいから家事をやってくれ、もしくは家事をやらなくていいから外で働いて金を稼いできてくれ」と頼まれたら、僕は迷わず後者をとる。
極端な例を考えると、とてもわかりやすい。例えば、外で仕事をしていて、自分のミスで他の人を殺してしまったとする。むろん、自分のしてしまったことに対して、贖罪したい気分になるだろう。悲しみも大きいだろう。でも、自分が殺してしまった人の家族の悲しみと自分の悲しみ、どちらが大きいかは言わずもがな。「社会的」「法律的」に責任を取ることで、ことは済むだろう。しかも責任の多くは、会社という組織が負ってくれる。自分のミスで人を殺してしまったという罪の意識は消えないが、悲しみは時間とともに薄れていくはず。それに対して、被害者の心の傷は決して消えない。
家事はどうだろう。一日ぐらい掃除をさぼったって、人は死にはしない。一日ぐらい食事に手を抜いたところで、人は死なない。しかし、それを継続してしまったら?衛生状態は劣悪になり、健康を害するリスクは高まるだろう。栄養は偏り、じょじょに体を蝕んでいくだろう。しかもその被害者は、ほかの誰でもない、自分の子供であり、自分が愛した人だ。自分が加害者になり、自分が被害者になる。消えない痛みと贖罪の気持ちの堂々巡り。だれが悪いのか、自分が悪いのだ。単純にリスクバランスという観点からを考えても、後者の方が痛みのリスクが大きい。だから僕は、外で働くことを選ぶんだ。
資本主義社会が成立したとき、ドイツの学者マルクスやエンゲルスによって、その危うさが指摘された。マルクーゼは、資本主義経済により、人は資本という価値からしか物事を判断できない「一次元的な人間になる」と指摘した。しかし、資本主義の中で物質的に豊かになっていく人は、これを単なるアジテーションとしてとらえた。「そんなことはない、資本主義と人の心は別々のものだ」、と。
経済的に豊かになるということと、人間的に豊かになるということは別の概念だ。だからといって、決して二者択一のものではない。その両方を手に入れることもできるはずだ。そのためには、実存主義の考え方を忘れてはいけないと思う。それは、人間は物質社会のために生まれたものではなく、人間こそが物質社会を作り出したのであり、人間というクリーチャーの存在(=実存)こそがすべてを作り出すということ。その実存こそ、人を物質的にも精神的にも豊かにすることができるし、その逆もまたしかり、ということ。性的分業は、男尊女卑の時代に作られた大きなイデオロギーだ。物質に恵まれることは人を豊かにすることも、資本主義を機能させるために作られたイデオロギーだ。
僕はそんなイデオロギーに支配され、人の心を失いたくない。物質に恵まれ、心がないままに死ぬことより、何を所有しなくとも、心がそこにあるままに死ぬことを選びたい。
以上、母の日を前に、風呂に入りながら考えたことでした。マドンナは正しい。って、こんな物欲にまみれたブログでこんなことを書いても説得力ないか(笑)。
いやまいった、今年は厄年だわ、ほんと。
頭がオカシクなったと思ったら、今度はぎっくり腰。
正確には、軽い椎間板ヘルニアらしい。
叔父さんが骨盤調整をしているおかげで、発病(笑)から
約1週間程度でなんとか動けるようになったけど...
心も躰も曲がり角かしら...
今日、痴呆症で特養老人ホームに入っている祖母が入院したという連絡が入ったので、病院に行ってきた。
日曜日の水族館ツアーで会ったおばさんの話では、土曜日までは血色もよく元気だったという。
会ってみると、祖母は真っ黄色な顔をしていた。黄疸が出ている。もちろん、会っても僕であるということはわからない。
医師と面談した母親が言うには、黄疸の原因としては胆石か肝臓に腫瘍ができているかのどちらかだろうという。
ただ、胆石の場合は、かなりの痛みを伴うのに、祖母は何も痛みを感じておらず、飄々としている。
その様子から、医師は腫瘍ができている可能性が大きいのではないか、ということなのだ。
腫瘍ができているとすると、完治させるにはかなりの大手術になるらしい。
むろん、84歳になった祖母にはその体力もなく、また痴呆もあるので術後の治療にも耐えられない。
手術を受けない場合の余命は1ヶ月前後になるだろう、とのことだった。
人の死、特に思いのある人の死は、いつ体験しても辛い。祖父が死んだときもそうだった。
僕が小さいとき、実家の隣は広い公園だった。祖母が実家に来るときには、隣町に住んでいたいとこも集合して、
一緒にその公園で遊んでいた。そして、時間になると祖母は、いつも公園の反対側から歩いて元気な姿をみせてくれた。
僕やいとこは、みんなで祖母の方に寄っていき、一緒に実家にかえって時間を過ごした。
それから20年以上たち、僕は大人になり、少しずつ体力の衰えを感じるようになった。
祖母は、これから死を迎えようとしている。
病院の帰り、姉のところに寄った。
姉には8歳、2歳、8ヶ月の、3人の子供がいる。子供たちはみんな、元気に育っている。
時間の経過、人によって大きく意味が異なる。
子供にとってはこれから生きていくための躰と心を作る大切な時間。
大人にとっては、日常生活の中で、何気なくすぎていってしまう時間。
そして老人にとっては、いつか来る「死」を考えながら残り少なくなっていく、とても愛おしいもの。
死に直面しようとしている祖母と、すくすく育っていく子供、
そして時間を浪費している僕、すごく対照的だ。
祖母が生きた証を心に刻み、子供たちが育っていく姿を見守りながら、
僕も、限りある時間を有効に使い、いつか気持ちよく永眠できたら。
本当に強く思った。
2005年7月21日に、姉貴の子供が生まれました。名前は「梨花」にしようとしてるみたいだけど、「花」を名前に入れると幸が薄くなるという情報を聞きつけて姉貴に教えたのだが、やっぱりそのままでいこうと思ってるみたいだ。まあ、名前の画数だとか変な漢字が入っているかなどは気にしなきゃなんてことはないのかもしれないけどね。
これで3人目の子供、つまり僕にとっては3人目の甥っ子。出生率が1.xx%の時代に3人産むなんて、ある意味すごいね。そのほか2回流産しているから、併せて5人産むところだったわけだ(笑)。だんなさんは男兄弟の育ちなので、女の子をどう育てていいか悩んでいる様子、太っているので子供には嫌われたくないという理由でダイエットに挑戦するんだと。
いずれにしても、産婦人科は、未来があって明るかった。これから生まれてくる子供、これから大きくなる子供がどのような人生を送っていくか、明るい未来がたくさん詰まっている病棟です。奥にあったリハビリ病棟とは明らかに空気が違いましたから。何より母子ともに健康でよかった!
今日唯一悲しかったことは、EOS Kiss Digitalのアイカップをなくしてしまったこと。IPエクステンダーについていたんだけど、どうも洋服とこすれたりするうちに外れてしまったようで、なくなっていた。結局帰りにヨドバシで買って帰った@525円。
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