2006年4月アーカイブ

QV-R51 Casio今日は特に用事がなかったので、先日ジャンクで手に入れたCASIO製5.0Mpixelデジタルカメラ「QV-R51」の周辺機器もろもろをあさりに行った。おおざっぱな人間のくせに、どうもこうしたデジタルガジェットはきれいに使いたいほうなので、液晶の保護フィルムをまず探してみる。まず最初に買ったのが、ELECOM DGP-003G 液晶保護フィルム(2.0型液晶用)。QV-R51の仕様表には液晶が「2.0型」と書いてあったので買ってみたのだが、張ってみるとどうも大きさが小さすぎて合わない。液晶のまわりがアクリルでブラックアウトしてあるので、その大きさの分だけサイズが合わないようだ。結局、auのW31SA用の液晶保護フィルムがサイズ的にバッチリだったので、これを購入@350円。ケースについては、このサイズのカメラなら豊富なんだけど、使い勝手を考えて、これまたELECOM製のスナップ式ベルトループ付デジタルカメラケースを買った@770円。ちょっと余裕がある感じだけど、ストラップもついていて結構便利。が、どちらもamazonで買っておけばもっと安かったんだなあと反省。サイズの合わなかった液晶保護フィルムは、父親が使っているPENTAXのOptio S40に使うことにしました。

Cyber-shot DSC-P1 さて、本題。これまでサブで使っていたSonyのDSC-P1との機能差をチェックしてみました。いやまあ、明らかに世代が違うので、アマチュア球団と阪神が戦うようなものだってことはわかってますが、とりあえずチェックしておこうと思ったわけで(汗)。ただ、前のエントリにも少し書いたと思うんだけど、デジカメ業界は価格競争が起こってから、CCDなりCMOSのサイズは変えないでただひたすらスペック上の画素数を上げるという方向に向かってしまったので、実は画素数のほど画質はアップしていない。そういう意味では、DSC-P1はデジタルカメラ業界が価格競争に飲み込まれる以前の機種なので、CCDがどれだけ高性能だった(あえて過去形で)のか、少し期待しているところもあるのだけれど。何せ発表当時(2000年9月)の価格は99,800円というのだから、価格だけはいまの一眼なみだ(笑)。

 まず、実写チェックに入る前に、両機のスペックを簡単に併記しておきましょう。

●CASIO QV-R51
発売時期: 2004年1月
撮像素子:1/1.8型正方画素原色CCD(総画素数 : 525万画素)
レンズ: F2.8−4.9 f=8−24mm(35mmフィルム換算39〜117mm相当)
ズーム倍率: 光学3倍ズーム
ISO: 50~400で自動
●SONY Cyber-shot DSC-P1
発売時期: 2000年9月
撮像素子: 1/1.8型CCD(インターレーススキャン/原色フィルター)334万画素
レンズ: F2.8〜5.3 f=8〜24mm(39〜117mm)
ズーム倍率: 光学3倍ズーム
ISO: 不明(スペック表に記載なし)

焦点距離や光学ズーム倍率は両機に差はない模様。起動の早さやメモリの読み込みスピードなんかは明らかにQV-R51の勝ちだけど、4年の差があれば、それは致し方ないところ。CCDの大きさはほぼ同じで、同じサイズに160万ほど多くの画素を詰め込んでいるのが前者、ということになります。さてさて、両者の実力差やいかに?

簡単モード対決1:広角側

コンパクトカメラは設定はカメラ任せで気楽に撮ろう、という感じなので、完全オートで撮影したものを比較してみたいと思います。まずは広角側で撮った写真。撮影時は曇天。
●CASIO QV-R51(2.0MB)
QV-R51 広角側画像
QV-R51では、ISO感度が自動的に200に設定され、フラッシュは発光しなかった。シャッタースピードは1/60、絞りはF2.8でした。
●SONY DSC-P1(1.3MB)
DSC-P1 広角側画像
それに対してDSC-P1では、ISO感度が100に設定され、フラッシュが発光した。シャッタースピードは1/60、絞りはF2.8で、このあたりの設定はQV-R51と同じになりました。

この二つの写真を比べてみると、QV-R51の方は、かなり明るめになっているのに対して、DSC-P1のほうは、少し重めの写り。が、実際の色味はどちらかというと後者の方が近いかな、という感じ。どうもQV-R51はかなり色をビビッドに表現するクセがあるみたい。色味はDSC-P1の方が近いけども、細部の描写に関しては、やはりQV-R51のほうに分があるかな。特に奥の方にある花の描写は、圧倒的にQV-R51のほうがきれい。

簡単モード対決2:望遠側

つづいて、望遠側の画像をチェックしてみます。こちらも撮影時は曇天。
●CASIO QV-R51(2.0MB)
QV-R51 望遠側の画像
かなり風が強かったせいか、なかなかピンあわせが難しかったんですが、こちらはシャッタースピード1/60、絞りF4.9、ISO200、フラッシュ発光。
●SONY DSC-P1(1.3MB)
DSC-P1 望遠側の画像
広角とは対照的に、こちらはISOが282という中途半端な数字に設定され、フラッシュは発光せず。シャッタースピードは1/40、絞りF5.6での撮影になりました。

望遠側では、どちらかというとDSC-P1のほうはメリハリがなく、ちょっとホワイトバランスが崩れている印象を受けます。それに対してQV-R51は、ダイナミックレンジも広く、自然な発色になっています。望遠側では明らかにQV-R51のほうがいい絵が撮れていると思います。

まとめ

 というわけで、簡単モードでの撮影をまとめてみると、やはり全体的にはQV-R51のほうが写りがいい。両機の年代差が4年あることを考えると、当たり前といえば当たり前。特に使い勝手に関しては、カメラのレスポンス、メモリーカードからの映像の読み込みには圧倒的にQV-R51の方が早いし、撮影した映像の再生に関しても、QV-R51にはヒストグラムを表示できたり、撮影情報を確認できるなどの利点がある。DSC-P1では、撮影条件を知るためには、一度Macに取り込む必要があり、ビューアーを通してExifをみるしかない。つまり、カメラ側でExifの情報を知ることができない仕様になっている。これはちょっと面食らってしまった。

 こう書くと、まるでDSC-P1が全くだめ、という感じを受けてしまうかもしれませんが、僕はむしろDSC-P1は結構頑張っていると思っています。特に広角側の画質に関しては、DSC-P1とQV-R51の間に4年という差があるとはわからないほど、DSC-P1ががんばってるな、と感じます。やっぱりこのあたりは、当時のカメラのほうがしっかりとCCDが作られていた、ということなのかもしれないし、詐欺のようなスペックアップの影響なのかもしれないですな。レスポンスの良さとかは当時の技術水準があっただろうから、DSC-P1が劣るのは当たり前の話なわけで。4年という歳月の中で、光学ズームの画質がかなりこなれてきた結果なのかもしれない(2000年当時のデジタルカメラって、ほとんどがデジタルズームだけだったもんね)。あとは、「簡単に撮って楽しめる」だけのカメラから、「簡単にとって楽しめるし、ある程度まではマニュアル調整もできて楽しめる」カメラへのパラダイムシフトが起こった、っていうことなのかも。

また時間が空いたら、今度は接写の性能もチェックしてみたいと思っています。

CASIO QV-R51今日、就職までのつなぎに何かアルバイトでもしようかと思い、市役所に行ったり、近所のお店を回ったりしました。そんな中で見つけてしまったのが、この「CASIO QV-R51組み立てキット」(笑)。もちろん、そんな組み立てキットなどあるわけがなく、ようはHARD OFFの小平店でバラバラに分解されてしまったままの状態でJUNK品として売っていたわけです。値段はなんと、1,260円!
 ガラスケース越しに見えるフレームには「5.0 MEGA PIXELS」の文字が見えるので、比較的最近のものだろう。祖父が時計の修理を生業としていたせいか、僕も精密機器の分解・組み立ては得意だ。そんな状況が相まって、「うう、いじりたい〜」魂が疼き、買ってしまった。むろん、バラバラになっているものを組み立てれば動く保証はどこにもないんだけど。

レジの兄ちゃん 「ジャンク品で動作保証ないけどいいですか....、まあ、こんなバラバラなんで(笑)」
僕 「あ、かまわないです」
レジの兄ちゃん 「組み立てられますか?」
僕 「昔、バネの壊れたデジカメを分解してなおしたことあるんで、大丈夫だと思いますよ」
レジの兄ちゃん 「わかりました、がんばってください(笑)」

心配ありがとう、レジの兄ちゃん。昔使ってたFinePix 4500も、シャッターカバーが壊れたジャンク品で買ってきて、なおしたんだよなあ、そういえば。昔SONYが出してたクリエも、バッラバラにしてなおしたことあったなあ。

CASIO QV-R51

 帰宅後、さっそく中に入ってたパーツを確かめてみる。メインフレーム、フロントカバー、サイドフレーム、バックカバー、三脚用のねじ止め、ストラップコネクタ、コネクタカバー、ネジ類...、あれ、もうひとつはなんだろう。いろいろと試行錯誤した結果、サイドフレームとメインフレームを固定するダイキャストパーツと判明しました。
 どうもメインフレームはほとんど分解されていないようなので、壊れていなければこのままでも電源が入るはず、と電池を入れてみた。が、電源が入らない。「う〜ん、やっぱり壊れたモノを研究用にバラして、HARD OFFに売り飛ばしたのか」と思い、通電テスターで一応電源基盤をチェックしてみる。どの回路もほとんど通電する。電源回路はおかしくないようだ....。

 「まあいっか」ってことで組み立てを開始。まず、フロントカバーのレンズホイールのネジをはずし、サイドカバーとフロントカバーをくっつけて再度ネジ止め。ストラップコネクタ、コネクタカバー、三脚用ネジ止め部分をフロントカバーにくっつける。メインフレームをその中に固定し、サイドカバーとダイキャストフレームをネジ止め。最後にバックカバーを装着して、すべてネジ止め。なんだ、ネジ、一個も欠けてないじゃん。

CASIO QV-R51

そんでもって完成したのが左の写真。どうもレンズ下に落下させた傷がある。「この傷のせいで電源はいらなくなっちゃったのかなあ...」、なんて思いながら、スイッチオン。

「うい〜ん」

 おいおい、動くじゃないか!分解するときは、感電しないために、電池やアダプタ類を抜いておくのは鉄則なんだけど、どうも電池を抜き忘れていたらしい。それで動くようになったということは、時計などを管理するバックアップバッテリが完全に放電されてしまっていんじゃないかと推測してみた。昔のMacもPRAM用のバッテリが死ぬと起動できないモノもあったしなあ。

 何はともあれ、なんと1,260円で500万画素のコンパクトカメラを手に入れてしまった。impress watchレビューを見る限りでは、コンパクト機としては十分の性能みたいなので、いい買い物をしてしまったなあ。コストパフォーマンスだけじゃなく、なんだかプラモデルを作り終えたような感動までいただいてしまった。カシオのカメラって一度も使ったことがなかったので、いろいろとチェックしてみようっと。いけそうなら、サブ期だったSONYのDSC-P1はサブのサブになってもらおうかな。

パッション ジム・カヴィーゼルパッション(ジム・カヴィーゼル監督)

『ダヴィンチ・コード』を読んで以来、僕の中で「キリスト教の真実」ブームが起こっています。学生の頃から、歴史を学ぶのは好きでした(専攻は日本史でしたが)。考えても見れば、キリストの物語というのは、紀元前から続く一大歴史ロマンなわけで、歴史学や神学などいろいろな方面からの研究もされているし、またもっと大きく言えば、現代の欧米の根幹をなすものだと考えられるわけ。僕の興味は、どちらかというと、史学的な興味です。もういい歳なので(笑)、信仰というものが人々を支配するために暗黙裏に利用されるイデオロギーの側面を持っていることは理解しています。絶対神をもたない仏教が日本の国教となっているのは、江戸時代末まで続いた日本の封建的な社会と無縁ではないわけで。つまり、王なり将軍が人を従わせるためには、「すべての人は平等である」・「神こそが救い主である」という教えを説く宗教は排除したい考えの一つであるということ。フランスやイギリスといった西欧諸国が、キリスト教を国教としながらも、王制を維持できたということは、どこかで史実が書き換えられている可能性が高い。キリスト教についてどのようにそれが書き換えられ、真実はどこにあるのか、それは一つの歴史物語として、非常に興味がわいてきた、というわけですな。

 が、一度でも聖書に目を通したことがある非キリスト教徒からすると、あの本は難しすぎる(笑)。登場人物が多すぎるし、福音書と呼ばれるものがいろいろとあるので、何を読めばいいのかもよくわからない(笑)。ので、予備的な学習として、聖書やキリストのことを平易な文章で解説してくれている聖書入門的な読み物か、映像を見てみようという結論に至りました。んでもって見てみたのが、この映画『パッション』だったわけです。

 この映画は、敬虔なカトリック教徒であるメル・ギブソンが私財を投じて作った、イエス・キリストが逮捕・処罰され、復活するまでの一部始終を描いたものです。台詞を当時の言語であったラテン語やアラム語で語らせるほど、かなりの情熱を持って作られた映画のよう。ネタバレになりますが、イエスが自分の弟子のユダによって裏切られ、十字架を背負わされてゴルゴダの丘に連れて行かれ磔にされたことぐらいはいくら無知な僕でも知っていた。そうしたストーリーを、エグイまでの描写で見せ続ける。十字架につるされたイエスが「許し給え、彼らは自分たちがやっていることをわかっていないのです」と叫ぶシーンは、非クリスチャンの僕にも、熱いものが伝わってきました。

 実際に感じられるもの、体験できるもの、合理的に説明できるもの以外をなかなか理解できない僕ですが、宗教ってそういうものじゃないんだな、と。忘れられるからこそ人間は生きていける。それと同時に、信じるものがあるからこそ、人は生きていける。すごく基本的なことなのだけれど、たぶんこれが人生を構成する絶対的な真理だと思う。それをこの映画は教えてくれました。キリスト教の真実とは何かとか、都合よく書き換えられた部分とは何か、なんてことをこのエントリの最初で書いているけど、それは単に「事実追求」という歴史学の命題に従った興味であり、キリスト教を否定するつもりは毛頭ない。どんな宗教であれ、絶対的に信じられる一つのことを持つ、それがとても尊いことなんだということを教えてくれました。史実がどうであれ、人は罪深い生き物であり、敵を愛し赦す心を持つことがその罪を購う最高の方法である、というのがキリスト教の根幹をなす考えである、ということで間違いはないかしら。

TEPCOひかり実家に戻ってきて、上げ膳据え膳でそれなりに快適な暮らしをしていたのだけれど、唯一の問題がネット環境の悪さ。Yahoo!BBの8Mプランに入っていたのだけれど、何しろ回線収容局から3キロ以上も離れているので伝送損失が大きく、実質1Mbps前後しかスピードが出ていなかった。世田谷のマンションはフレッツADSL12Mプランで4.5Mbps前後出ていたから、体感的な差も大きい。ちょっとこれではしんどいので、引っ越し前にSo-netのTEPCO光ホームプランへの変更手続きをしておいた。

その工事が今日になってやっと行われました。1時半頃お兄ちゃんが工事にやってきた。待つこと1時間ぐらいで、すぐに工事終了でした。その後外出し、帰宅した後に部屋内の配線を行う。

回線を変えた後は、おきまりのようにブロードバンドスピードテストをやってみる。な、なんと、下りも上りもだいたい42Mbpsの速度が出る!いまさらながら、光ファイバー通信のすごさを体験しました...。ちなみにTEPCOひかりの平均速度は47Mbps前後らしい。結構早いのね、TEPCO。

最後の青空

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最後の青空 Last Sky
今日、一人暮らしをしていたマンションの引き渡しに行ってきた。1時半ちょっと前ぐらいにマンションにつき、空っぽになった部屋を見る。時間をつぶそうにも、テレビもなければステレオもない。

仕方がないので、ベランダに腰をかけ、缶コーヒーを飲みながらぼーっとたばこを吸った。隣の家の屋根、無数のアンテナの群れ、環八沿いにある清掃工場の煙突、見慣れた風景が見える。雲はあるけど、きれいな青空。これが6年間暮らした部屋から見る最後の景色かと思うと、なんだかとても寂しい気分になった。

思えばこの部屋での6年間、いろいろなことがあったなあ。辛いこともあったが、楽しい時間のほうがずっとずっと多かった。
美しく、頼もしく、楽しいサポートがあったから。

ありがとう、そしてこれからもよろしくお願いします。

ダヴィンチ・コード 文庫版ダヴィンチ・コード(文庫版)

僕の本の趣向はフランス文学とかイギリスの古典とかばかりで、いわゆるベストセラー作家の作品はほとんど読んだことがないです。ダニエル・キースが流行っていてもサルトルとか読んでたし、ハリー・ポッターとかが流行っててもボリス・ヴィアンとかレーモン・クノーとか読んでたりする偏屈者なわけです。小説といってもオスカー・ワイルドとかジェイムス・ジョイスとかちょっと一癖もふた癖もあるようなものばかり読んでいたし、あとはボードリヤールとかそのへんの哲学系の本を読んでわかった気になったり(笑)。

そんな僕が久しぶりに読んだベストセラー小説がこの『ダヴィンチ・コード』。大学院では大衆文化論っちゅうのを専攻していたせいで、カルチュラル・スタディーズという学派の文献をよく読んでいました。その文献でよく出てくるのが、「representation」(=表象)という概念。簡単に言うと、ソシュールのシニフィエ(言葉や文字面)とシニフィアン(想起されるイメージ)という概念を応用したモノです。

ダヴィンチが、彼の描き残した絵の中でキリスト教の隠されたメッセージを伝えているという話は前から知っていたのだけれど、最初この本はそうした隠されたメッセージを図像学的に説明した本だと思っていたわけ。カルチュラル・スタディーズでは、イメージとして残されたモノからメッセージを読み取っていくという方法がよくとられていて、そうした興味から読んでみたいなあと思っていました。が、実際は、それを題材としたミステリー小説だと知って、「そんなものおもしろいのかなあ」と高をくくっていたところもあったんだけど、読んでみるとこれがまた非常におもしろかった。象徴学の学者と暗号解読官が今日伝えられているものとは異なったキリスト教を知るためのキーを解き明かしながら、彼らが巻き込まれた事件を解決していく、というストーリー。これから映画も公開されるようだし、ネタバレになるような情報は書くのはやめようと思うのだけれど、クリスチャンではない僕が読んでも、非常に読みやすかったです。

僕は典型的な無宗教の人間なのです。というのも、合理的に説明できないモノを信じられるほど、きっと頭がよくないのだと思う。しかし、その宗教が人を救う力があるということは十分にわかっているつもり。人は誰でも、信じているモノがあるからこそ、生きていけるのだと思うから。キリスト教の真実を伝える聖杯をまつわるストーリーなんだけど、例え真実がどこにあろうとも、やはり自分が納得して信じることができれば、それがもっともその人にとっての救いとなるんだということが、この本を読み終わった後の感想でした。不思議と、ミステリー小説を読んだ後の爽快感というか、大円団みたいなモノを感じられなかった分、僕にとってはなじみやすかったのかなあなんて思っています。

パイドジャンガリアンハムスター しまぞう
今日は、ケージを掃除する際、久しぶりにハムスターボールに入れてみました。これまでの部屋と違い、広い応接間が彼の居場所になっているので、一生懸命走ってました。
ちなみにこの写真、引っ越しの片付けで押し入れの奥から出てきた、遠い昔にジャンク品で買ったSonyのデジカメ『DSC-P1』によるもの。サブ機としてはまだまだ使えそうだ...

いやまいった、今年は厄年だわ、ほんと。
頭がオカシクなったと思ったら、今度はぎっくり腰。
正確には、軽い椎間板ヘルニアらしい。
叔父さんが骨盤調整をしているおかげで、発病(笑)から
約1週間程度でなんとか動けるようになったけど...

心も躰も曲がり角かしら...

新世紀エヴァンゲリオン新世紀エヴァンゲリオン

いやほんと、今更、という感じなんだけど、はまってます。エヴァンゲリオンのマンガ版。
きっかけは引っ越しした実家のそばにあったBOOK OFFの105円コーナーに山積みされていたこと。
「懐かしいなあ」と思って買ってみたが、いつの間にか買いそろえてしまった。

が、アニメーションで爆発的に人気が出たのが、かれこれ10年前(僕はまだ大学生)なのに、
マンガ版はまだ完結していない(笑)。初出を見てみると、角川書店から出ている月刊エースという
マンガ雑誌に2ヶ月に一度連載されているらしい。だいたい1冊に6エピソード分を収録しているから、
なんとコミックスの発刊が年1回ぐらいのペースのようだ...

当時からかなり話題になっていたので、アニメもリアルタイムで見ていたが、
なんだかわざと不可解にするためにわざとらしい描写が多く、ちょっと鼻につく部分があった。
アスカの「あんたバカァ?」とか、綾波レイのキャラクターとナリなど、かなり話題先行というか、
いわゆるコスプレ的な人気が先行してしまっていた感があったのだけれど、
マンガ版はアニメよりもずっと心理描写に凝っていて、人間味あふれる感じでかなりおもしろい。

最新作の10巻では、16使途との戦いで2人目のレイが死に、3rdレイが登場。
リツコがダミーのレイを破壊するところで終了する。
まだ渚カヲルが使途であることもバレてないし、人類補完委員会の仲間割れから
戦略自衛隊のネルフ侵攻も描かれていない。完結するまであと何年かかるのやら...

宇迦八幡宮の桜

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宇迦八幡宮
今日も祖母のお見舞いに行ってきました。甥っ子連中がいたので、面倒を見つつ、病院の裏にある宇迦八幡宮に行ってみた。
僕はお酒が全く飲めないので、花見にはいっていない。
いつのまにか、桜も見頃をすぎ、青葉がちらほらと見えてきているんだね。
少なくともこの桜が完全に散るまでは、祖母には生きていてほしいなと思います。
桜が散った後は、8月の祖母の誕生日まで、そしてそれが終わった後は、祖父の命日である10月10日まで、
目標を持って、少しでも長生きしてほしい。

今日、痴呆症で特養老人ホームに入っている祖母が入院したという連絡が入ったので、病院に行ってきた。
日曜日の水族館ツアーで会ったおばさんの話では、土曜日までは血色もよく元気だったという。
会ってみると、祖母は真っ黄色な顔をしていた。黄疸が出ている。もちろん、会っても僕であるということはわからない。
医師と面談した母親が言うには、黄疸の原因としては胆石か肝臓に腫瘍ができているかのどちらかだろうという。
ただ、胆石の場合は、かなりの痛みを伴うのに、祖母は何も痛みを感じておらず、飄々としている。
その様子から、医師は腫瘍ができている可能性が大きいのではないか、ということなのだ。
腫瘍ができているとすると、完治させるにはかなりの大手術になるらしい。
むろん、84歳になった祖母にはその体力もなく、また痴呆もあるので術後の治療にも耐えられない。
手術を受けない場合の余命は1ヶ月前後になるだろう、とのことだった。

人の死、特に思いのある人の死は、いつ体験しても辛い。祖父が死んだときもそうだった。
僕が小さいとき、実家の隣は広い公園だった。祖母が実家に来るときには、隣町に住んでいたいとこも集合して、
一緒にその公園で遊んでいた。そして、時間になると祖母は、いつも公園の反対側から歩いて元気な姿をみせてくれた。
僕やいとこは、みんなで祖母の方に寄っていき、一緒に実家にかえって時間を過ごした。
それから20年以上たち、僕は大人になり、少しずつ体力の衰えを感じるようになった。
祖母は、これから死を迎えようとしている。

病院の帰り、姉のところに寄った。
姉には8歳、2歳、8ヶ月の、3人の子供がいる。子供たちはみんな、元気に育っている。

時間の経過、人によって大きく意味が異なる。
子供にとってはこれから生きていくための躰と心を作る大切な時間。
大人にとっては、日常生活の中で、何気なくすぎていってしまう時間。
そして老人にとっては、いつか来る「死」を考えながら残り少なくなっていく、とても愛おしいもの。

死に直面しようとしている祖母と、すくすく育っていく子供、
そして時間を浪費している僕、すごく対照的だ。
祖母が生きた証を心に刻み、子供たちが育っていく姿を見守りながら、
僕も、限りある時間を有効に使い、いつか気持ちよく永眠できたら。
本当に強く思った。

ここのところサーバの調子が悪い。というのも、Movabletypeを使ってエントリを作ると、どうもblogのディレクトリ内のパーミッションが変わるようで、Internal Server Errorが出るようになってしまった。書き込んだ後、FTPソフトを使ってディレクトリ内のファイルに対してパーミッションを変更するとエラーが出なくなる。サーバサイドの設定が何か変わったのかな?

と思ってググってみたら、どうもMovabletype自体はデフォルトでパーミッション666のファイルを描き出す模様。その解決法をEarlgrey Tearoomさんのブログの中に発見。mt.cfg内にその設定があるそうな。

今日、甥っ子たちといっしょに、品川プリンスホテル内にある「エプソン品川アクアスタジアム」に行ってきました。30歳を超えたオヤジが水族館なんてちょっと憚れるのですが、結構好きなんです、水族館。お目当てはイルカとアシカのショー。


まずはイルカショーを見ました。カマイルカとバンドウイルカが、人を乗せて泳いだり、クルクル回ったりといろいろな芸を見せてくれます。圧巻だったのがジャンプ。7mも上にある赤いボールをめがけてジャンプして、タッチ。キューキュー泣いたりしてかわいかったです。イルカを飼いたくなった(笑)。
もう一つお目当てだったアシカショーは、プールの観客席が少ないせいか、立ち見を含めて満席になってしまっていて、見ることができませんでした。2歳の甥っ子を連れていたせいか動くスケジュールが適当になってしまったので、残念でした。


イルカショーを見た足でペンギンの展示コーナーへ。いやあペンギンって泳ぐんですね。陸の上では羽を広げておどけた姿、くちばしで体をつついて毛繕いをしたりと、大人気でした。

今度はアシカショーを見にもう一度行きたいなあ。

パイドジャンガリアン しまぞう
体調を崩していて、結局自宅を引き払い、実家で生活することになりました。ようやく引っ越しも落ち着き、久しぶりの投稿です。
もともと住んでいた家だし、僕の方はちょっと勝手が変わるぐらいでたいした影響はないのだけれど、パイドジャンガリアンハムスターのしまぞうはどうかな?
なんだか実家に来てから少しナーバスになった感じ。ケージの掃除をしているとき、久しぶりに迷路に入れてあげたら、ぐるぐる走り回った後、どうも眠くなったみたい。じっとしていました。