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PEN 3月1日号『時代の鼓動と共鳴する ロックのデザイン』今日、仕事の帰りに新宿の紀伊国屋書店に『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』(最近ネタはこの人ばっかりなんだけど、ソフィア・コッポラの処女作、『ヴァージン・スーサイズ』の原作本です)を探しに行ったのだけれど、そこでおもしろそうな雑誌を見つけて衝動買いしてしまったのがこれ。いろんなアーティストのカバーを作ったデザイナーのインタビューや、有名人(なんだか安っぽい響きね)が一番好きなジャケットが紹介されていました。インタビューの中には、なんとあのピーター・サヴィルが!

 僕のような80年代ニューウェーブ野郎にとっては、ファクトリー・レコードとピーター・サヴィルがデザインしたレコードのジャケットは、ジャケットのデザインの善し悪しを判断するルーツになるようなコードとなっているわけで、とても興味深いインタビューでした。氏曰わく、陰と陽、デカダンスとデジタル、ロマンティックとインダストリアルのように、「内部にある二面性」がキーになっていること。彼がデザインしたジャケットの中でもっとも好きなのはニュー・オーダーの『権力の美学』(Power, Corruption & Lies)だそうな。うわ、僕と一緒や。スウェードの『Coming Up』のジャケットも好きだったけど。

 なお、その他のインタビュイーは、Blurやモリッシーなど、いかにも「イングランド」を象徴するデザインハウス、スタイロルージュや4ADの元お抱えデザイナー、ヴァーン・オリバー(Pixiesやミキ&エマのLushなんかもこの人のデザインね)など、興味深い面々。

 あ、そうそう、スウェードといえば、ブレット・アンダーソンのソロが3月に出るらしいっす。楽しみ!

ただのいぬ。

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ただのいぬ 角川文庫ただのいぬ。(角川文庫)

ただのいぬ。写真展のページ

うちのらんは、都内某所の多頭飼い崩壊の現場から救出された子です。飼っている人たちも生活保護を受けなければ暮らしていけないようなところで、30匹弱のわんこたちが、たった一つの餌を取り合って暮らしていたそうです。極度の栄養失調で全身の毛は抜けてしまい、餌の取り合いで犬同士でけんかをして傷だらけ、そんな状態だったそうです。極度に甘えん坊のらんの性格も、たぶんそうやって人間に甘えることで、なんとか餌をもらって生き抜いてきたことからくるものなのかもしれません。

 らんだけではなく、人間の勝手な都合で保健所行きになってしまったり、悪質ブリーダーの過酷な生産で生命を失う犬、ペットショップで売れなかった子たち。いったい何匹の犬が、生命を受けて、人と一緒に幸せな一生を送れるのかな。幸せな子と不幸な子との分水嶺はどこにあるんだろう。

 らんの譲渡を受けた動物生命尊重の会は、そんな不幸なわんこを救うために、草の根で活動をしている団体の一つです。かわいそうな子を救おうと、時間を惜しまずにレスキューをし、そんな子たちを預かり、里親探しをしています。残酷な現実を少しでも変えようとしている団体の一つです。

 この本に載っているわんこたちにも、さまざまな事情を抱えています。らんがうちにきて幸せに暮らしているかどうかは、本人に聞いてみないとわからないですが、少なくとも僕は会の皆さんやもとの預かりさんが必死になってレスキューしたこの甘えん坊の命を、なんとか幸せの中で全うできるようにがんばっているつもりです。

 でも、現実はとても過酷。今日にも、いまにも、苦しんでいるわんこたちがいっぱいいると思います。現実を変えるには、ただ一つのことだけですむ。人間の意識を変えること。エゴイズムで動物を飼うことをやめること。それだけですむはずなんです。「ただのいぬ」。なんてことないただの犬だけど、無料(タダ)の犬だけど、もっている命の大きさは、人間のそれと等価のはず。それをこの本(というか写真集)をみて感じました。

シュテファン・ツヴァイク マリー・アントワネットコッポラの『マリー・アントワネット』が公開になるっちゅーことで、最近はツヴァイクの『マリー・アントワネット』を読み直してみました。というか、映画公開にあわせて新訳が出ているので、新しく買ったんですが。

 上下巻の2巻構成で、マリー・アントワネット(上)のほうは、若くしてフランス王太子(後のルイ16世)野本に嫁ぎ、放蕩の限りを尽くすところから革命前夜まで、『マリー・アントワネット(下)』のほうはフェルゼンとの恋愛から処刑まで、という流れです。ツヴァイク自身は伝記作家なので、架空のキャラクターで物語設定ということはせず、史実に忠実にアントワネットのことと綴っているのだけれど、ところどころに思い入れが入ってくるのか、突然トーンが変わって力説モードになったりして、けっこう読み応えがあります。「果たしてアントワネットはフェルゼンとヤったのか?」みたいなところで、「ヤってない派」のことをコテンパンにコキ落としたり(笑)。アントワネットの物語は『ヴェルサイユの薔薇』で有名だけど、あれはむろん創作なので史実と異なるところは存分にあるわけで、ツヴァイクの本はできるだけ史実に乗っ取った上で持論を展開していて、説得力を持って伝わってきます。

 人間、甘やかされるとダメになるとはよく言ったもので、前半のアントワネットは同情の余地もないほど「世間知らずのお嬢様」。その人が徐々に母性に目覚め、自身の身が危険にさらされると同時に大きく変化していく人間性。そして悲劇的な最期。アントワネットの生涯はこの一言に尽きると思うのだけれど、史実・創作を含めて、世界史的にさまざまに語り継がれている彼女の物語は、何度読んでも楽しいです。

人事のプロが書いた商売繁盛学 超現場主義のすすめ 上野和夫 ネットクエスト人事のプロが書いた商売繁盛学“超現場主義”のすすめ
上野和夫(株式会社ネットクエスト代表取締役) 著 現代書林

好きな作家がカミュ、カフカ、サルトル、と言えばわかっていただけるかもしれませんが、どこか哲学めいた小難しい文学が好きなんです。んなわけで、こういうビジネス書のたぐいは本当に久しぶりに読んだ。

 いろいろと人と話をしていると聞くことなんだけど、たとえばお店などで「お金を払っているのだからサービスを受けるのは当たり前だ」と考えている人も多い。ハト派のマルクス主義者の僕(笑)としては、精神構造までを資本主義に染めるのはあんまり好まないわけ。

 何が言いたいかというと、Payerとしてサービスを受けるのは当たり前としても、それが圧倒的な支配関係につながるのは好きではないということ。お金を払っているのだから、客の言うことを聞くのは当たり前だ、そんな態度はどうも僕は好きになれない。たしかにお金は払っているのだけれど、その対価としてサービスを受けているわけなので、立場としては対等でありたい。そういう意味では僕はいい客なのかも(笑)。

 この本を読んで思うのは、つまり人間関係として平等で、かつそこに資本の関係がしっかりと存在できるような関係は、いい店員さんがはぐくむというのではにないか、ということ。自分の経験に照らし合わせてみても、やっぱり対応とかが失礼な店員さんとはいい関係は作れない(といっても、文句は言わないでただそのお店に行かなくなるだけなんだけど)。でも対応がよく気が利く店員さんにあったりすると、その店員さんとはいい関係が作れて、またこのお店で買おうかな、という気持ちになる。

 へんに効率性とか生産性とかが重宝される時代になっているけど、やっぱりサービスの基本は人間の対面コミュニケーションであって、それが満足度を決定する、当たり前のことだけれど、とても大切なこと。デジタルでは埋められないアナログな感覚。僕は小売店の店頭に立つような職業には就いていないけれど、この気持ちは大切にしていきたいと思っています。

世界ハッカー犯罪文書
世界ハッカー犯罪白書

 「コンピューターハッカー」という言葉の定義は何だろう。いまでは、「コンピューターを隠れ蓑にして、人の知らないうちに何かの結末をもたらすような人」、というようなかなり広義なイメージで捉えられていることが多いと思う。いわずものがな、「ハッカーはコンピューターに対して堪能で、オタク的興味を持つ人々」であって、犯罪行為や不正行為に「もとより手を染めている」とうプロポシションを含有するものではない。

 この本は、アメリカ編、東欧・アジア編、西ヨーロッパ編と地域ごとにわけ、前者の広義なハッカー定義に従って起こった事件・犯罪のエピソードを少しずつ拾ったもの。有名なケヴィン・ミトニックのような例も載っているが、ソーシャル・エンジニアリングを使ってシステム変更中の銀行ATMから金銭を詐取しまくった夫婦の話など、かならずしも「ハッカー」が介在して行われた事件だけを扱っている訳じゃない、

 一つ一つのエピソードも比較的短くまとめられていて、とてもよみやすい。ハッカーに関する書籍は『カッコウはコンピューターに卵を産む』や『リトル★ハッカー 「ハッカー」になった子供たち』などたくさんの本を読んできたんだけど、その中では一番多数の例が載っているものの、その手口や方法、生涯などのエスノグラフィーをはしょって書いてしまっている分、深みにはあまりかける。一番詳しく書いてあったのは、前述のハッカー「ケビン・ミトニック Kevin Mitonik(この名前でGoogleで検索をかけると、それなりにヒットするはず)」の物語だった。

 ハッカーとそれらを追いつめるセキュリティ技術者の戦い、という点では、『カッコウはコンピューターに卵を産む』が一番詳しい。どんなコマンドを使ってシステムに進入し、どのような方法で匿名の人間になるかなどの方法が、著者であるクリフォード・ストールの日記形式で事細かに表現してあるからね。まあ、冷戦当時の話で、KGBが西側の情報をほしいがためにハッカーを雇いハッキングさせていた、という大きな事件であったわけだから、これぐらいの扱いはしても当然なんだろうけど。

 いずれにしても、『世界ハッカー犯罪白書』は、「薄く広く」コンピューターが利用された犯罪について紹介していて、その知識を得るというよりもむしろ、コンピューターへの過度の依存と放置がいかなる危険を招くか、ということについて、読みやすい文体で警鐘を鳴らしたもの、と考える方がだとうかもしれない。そして、コンピューターを使った犯罪は、ほとんどの場合、プログラムのミスやその他の監査により、おおむねの容疑者を断定することができること。それを示すことで、コンピューター犯罪の抑止力を高めるために書かれたものと考えることもできる。

 そういう意味では、短編小説の寄せ集め、みたいな体裁をとっているこの本は、非常に読みやすい。つくづく、そういう能力をもっとうまい方向に使えればなあ、と思ったりするものだけれど...

以前のエントリでも書いているように、最近はキリスト教というものに対して史学的な興味を持っていて、それに関する本ばかり読んでいるような生活をしています。その中で、「これはわかりやすい!」「これはおもしろい」と思った何冊かの本を紹介します。

阿刀田高 旧約聖書を知っていますか阿刀田高:旧約聖書を知っていますか?(新潮文庫)

以前読もうと思って挫折した聖書は「新約聖書」(簡単に言うと、キリストの誕生から弟子たちの伝道までを記した書)のほうで、実は旧約の方は読もうとしたことすらなかった。というか、新約聖書と旧約聖書の違いもよくわかっていなかった。旧約の方は、天地創造からキリスト以前までを書いている書で、有名なモーセの十戒などのエピソードはこちらに登場するわけです。ちなみに、旧約聖書はユダヤ教の聖典となっているとのこと。

 旧約聖書、というと、やはりどこか堅いイメージがある。神の教えをつらつらと...というのが僕が持っているイメージなんだけど、旧約の方はどちらかというと戦記物語に近い感じなのかな、少なくとも阿刀田高さんが書いたこの本を読む限りではそんな印象を受けました。というのも、どうも迫害とか皆殺しとか、いわゆる神の教えに背くものに対する罰とか、異教の神を信じて聖書の教えを阻むものたちが行う迫害の有様を描いたものがなんだかすごく多いようなのです。

 非クリスチャンの阿刀田高さんは、「できるかぎりわかりやすい旧約聖書のダイジェストを書いてみよう」と思い立ったのがこの本。旧約聖書には多くの登場人物と数々の「記」があるのだけれど、その中から代表的な数名のエピソードを紹介しながら、「現代で言えばこんな感じだったのだろう」的な解説を加えてくれていて、軽快に読み進めることができる本でした。まず「アイヤー、ヨッ」というかけ声を覚えてほしい、このかけ声はアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ」といった旧約聖書の主要な登場人物を覚えるためのもの。「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」みたいなものですね。子宝たくさんのヤコブの章にいたっては、妹と結婚しようとしたけどだまされて姉と結婚させられ、姉と寝れば妹もやると言われたヤコブが、夜の生活でがんばった(笑)など、ところどころ不謹慎な記述を用いながら説明してくれています。不謹慎、と書くと批判的に聞こえるかもしれませんが、非クリスチャンにとってはこういう書き方の方がとってもわかりやすいものです。競馬とか、するめとか、神についての本とは思えないような例えを連発して、至極わかりやすく書いてくれているので、おおむねの流れを把握するのにはとてもいい本だと思います。

阿刀田高 新約聖書を知っていますか阿刀田高:新約聖書を知っていますか(新潮文庫)

 前述の本の続編かな?新約聖書の方は、先ほども書いたようにイエス・キリストの誕生からイエスの弟子たちの伝道までを扱っています。これを阿刀田流の解説をしたのがこの本になります。

 なぜ非クリスチャンの人にとって阿刀田さんの本がわかりやすいかというと、やはり聖書をひとつの「フィクション」としてとらえている部分なのだと思います。敬虔なクリスチャンにとっては聖書をフィクションと考えることは耐えられない侮辱なのかもしれないけれど、非クリスチャンにとってはフィクションと捉えることからスタートした方がわかりやすいと思います。

 旧約の方は、登場人物もそれに伴うストーリーも多く、それらをわかりやすく紹介する、といった趣向でしたが、新約の方は各福音書で共通する記述が多く、登場人物の整理よりも、各エピソードの重点的な解釈という趣が強いです。章としては、「受胎告知」(母マリアの処女受胎について)「妖女サロメ」(イエスに洗礼を施したヨハネと当時のユダヤ王ヘロデについて)「ガリラヤ湖」(イエスが起こした数々の奇跡についての解釈)「十二人の弟子」(イエスと弟子たちのなれそめとエピソード)「イエスの変容」(イエスの逮捕)「ゴルゴダの道」(イエスの処刑までのエピソード)「ピエタと女たち」(キリストの復活について)「クオ・ヴァディス」(イエスの復活と弟子の伝道について)「パウロが行く」(弟子パウロの伝道について)という形で、各福音書から使徒行伝までを時系列的に追っています。が、「クイズ100人に聞きました」や国語の試験問題、演劇などを使ってわかりやすく勝手な(笑)解釈をしていくのが阿刀田流。旧約と同じく、軽快に読み進むことが出来ます。

樋口雅一 マンガ 聖書物語(新約篇)
樋口 雅一, 山口 昇:マンガ聖書物語 (新約篇) (講談社+α文庫)

 わかりやすい、といえばとにかくマンガ。これは視覚的なイメージとして頭の中に入ってくるので、どうしても文章よりもはっきりとイメージが伝わってくる。むろん、その分文章よりも語弊が多い表現がどうしても増えてしまうのだろうけど、それは仕方ないとして、新約聖書の内容をざっと斜め読み・斜め理解(笑)するには十分です。

 新約聖書には「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」という4つの福音書があるらしい。「イエスの生涯」を基本軸に、この4つの福音書を時系列順で一つにまとめる形で描かれています。また、聖書には細かく記載されていないイエスの子供時代のエピソードなども、「想像を含めて」と注釈を入れた上でしっかりと描いてくれている。そのおかげで、イエスの誕生から布教、処刑までがしっかりと把握できる。また、弟子のパウロや、ユダヤ教の律法を伝えるバリサイ人からイエスの恵みによって改宗したサウロ(パウロ)の布教活動を中心に、「使徒行伝」という形でまとめられている、イエス死後の弟子たちの伝道の様子も描かれています。

先ほども書いたように、マンガにすることで聖書の内容と食い違うような描写になってしまう危険性はあるものの、聖書がどのようなストーリーになっていて、どのような教えをしているかについて簡単に理解するにはもってこいの本だと思います。

三浦綾子 新約聖書入門三浦綾子:新約聖書入門―心の糧を求める人へ(知恵の森文庫)

 最後に紹介するのは、ドラマ化もされた「氷点」の作者として有名な三浦綾子さんの本、「新約聖書入門」です。ずっと僕は「史学的な興味」を持っていると書いてきましたが、これは聖書の史学的な側面ではなく、聖書すなわちキリスト教の教えについて、筆者の体験を含めてわかりやすいことばで書いてくれています。

 筆者である三浦綾子さんは、結核にかかり13年の間闘病生活を送っていたらしい。その中で、同じ病室で巡り会った友人と、「聖書を一字一句読もう」と約束をして、キリストの教えにふれることになったとのことです。非クリスチャンがキリストの教えを聞いたときに、どうも相容れない部分があったり、よく意味がわからないことがあったりするものだと思います(というか、僕自身がそうです)。三浦さんは、このような「入信後に感じた違和感」を隠そうとはせず、その違和感が自分の経験でおぼろげながらも解消されていく過程をしっかりと記述してくれているので、「ああ、そういうことなんだ」と自然と理解できてしまうわけです。

 この本を読んで自分なりに思ったのは、キリスト教の根底は「自由」という考えなんだな、ということ。「右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ」、聖書にこのことば通りに書かれているかどうかは知りませんが、有名なことばです。僕はこのことばを聞いたときは、いわゆる「非暴力主義」の象徴的なことばだと思っていたのだけれど、どうもそうではないのではないかと。つまり、殴られたという事実から、殴った人への復讐心に「支配」されるな、ということであって、赦すという気持ちを持つことで、自分自身がその復讐心にとらわれることなく自由な清新でいられる、そういうことなんじゃないかと。

まあ、あくまで僕の勝手な理解なんで、細かい部分への突っ込みはなしでお願いします(笑)。いろいろと本を読んだ結果がキリスト教への信仰へとつながるか、というのはまた別の話なんだけど、いままで曖昧で知らなかったことに対して知識を得るというのは、とても楽しいことだなあと、大学院時代以来改めて痛感している毎日です。

ダヴィンチ・コード 文庫版ダヴィンチ・コード(文庫版)

僕の本の趣向はフランス文学とかイギリスの古典とかばかりで、いわゆるベストセラー作家の作品はほとんど読んだことがないです。ダニエル・キースが流行っていてもサルトルとか読んでたし、ハリー・ポッターとかが流行っててもボリス・ヴィアンとかレーモン・クノーとか読んでたりする偏屈者なわけです。小説といってもオスカー・ワイルドとかジェイムス・ジョイスとかちょっと一癖もふた癖もあるようなものばかり読んでいたし、あとはボードリヤールとかそのへんの哲学系の本を読んでわかった気になったり(笑)。

そんな僕が久しぶりに読んだベストセラー小説がこの『ダヴィンチ・コード』。大学院では大衆文化論っちゅうのを専攻していたせいで、カルチュラル・スタディーズという学派の文献をよく読んでいました。その文献でよく出てくるのが、「representation」(=表象)という概念。簡単に言うと、ソシュールのシニフィエ(言葉や文字面)とシニフィアン(想起されるイメージ)という概念を応用したモノです。

ダヴィンチが、彼の描き残した絵の中でキリスト教の隠されたメッセージを伝えているという話は前から知っていたのだけれど、最初この本はそうした隠されたメッセージを図像学的に説明した本だと思っていたわけ。カルチュラル・スタディーズでは、イメージとして残されたモノからメッセージを読み取っていくという方法がよくとられていて、そうした興味から読んでみたいなあと思っていました。が、実際は、それを題材としたミステリー小説だと知って、「そんなものおもしろいのかなあ」と高をくくっていたところもあったんだけど、読んでみるとこれがまた非常におもしろかった。象徴学の学者と暗号解読官が今日伝えられているものとは異なったキリスト教を知るためのキーを解き明かしながら、彼らが巻き込まれた事件を解決していく、というストーリー。これから映画も公開されるようだし、ネタバレになるような情報は書くのはやめようと思うのだけれど、クリスチャンではない僕が読んでも、非常に読みやすかったです。

僕は典型的な無宗教の人間なのです。というのも、合理的に説明できないモノを信じられるほど、きっと頭がよくないのだと思う。しかし、その宗教が人を救う力があるということは十分にわかっているつもり。人は誰でも、信じているモノがあるからこそ、生きていけるのだと思うから。キリスト教の真実を伝える聖杯をまつわるストーリーなんだけど、例え真実がどこにあろうとも、やはり自分が納得して信じることができれば、それがもっともその人にとっての救いとなるんだということが、この本を読み終わった後の感想でした。不思議と、ミステリー小説を読んだ後の爽快感というか、大円団みたいなモノを感じられなかった分、僕にとってはなじみやすかったのかなあなんて思っています。

新世紀エヴァンゲリオン新世紀エヴァンゲリオン

いやほんと、今更、という感じなんだけど、はまってます。エヴァンゲリオンのマンガ版。
きっかけは引っ越しした実家のそばにあったBOOK OFFの105円コーナーに山積みされていたこと。
「懐かしいなあ」と思って買ってみたが、いつの間にか買いそろえてしまった。

が、アニメーションで爆発的に人気が出たのが、かれこれ10年前(僕はまだ大学生)なのに、
マンガ版はまだ完結していない(笑)。初出を見てみると、角川書店から出ている月刊エースという
マンガ雑誌に2ヶ月に一度連載されているらしい。だいたい1冊に6エピソード分を収録しているから、
なんとコミックスの発刊が年1回ぐらいのペースのようだ...

当時からかなり話題になっていたので、アニメもリアルタイムで見ていたが、
なんだかわざと不可解にするためにわざとらしい描写が多く、ちょっと鼻につく部分があった。
アスカの「あんたバカァ?」とか、綾波レイのキャラクターとナリなど、かなり話題先行というか、
いわゆるコスプレ的な人気が先行してしまっていた感があったのだけれど、
マンガ版はアニメよりもずっと心理描写に凝っていて、人間味あふれる感じでかなりおもしろい。

最新作の10巻では、16使途との戦いで2人目のレイが死に、3rdレイが登場。
リツコがダミーのレイを破壊するところで終了する。
まだ渚カヲルが使途であることもバレてないし、人類補完委員会の仲間割れから
戦略自衛隊のネルフ侵攻も描かれていない。完結するまであと何年かかるのやら...

リトル★ハッカー 「ハッカー」になった子供たちリトル★ハッカー 「ハッカー」になった子供たち
 先週末、じいちゃんの法事で久しぶりに実家に帰ったので、その途中にブックオフで買ってみました。 「ハッカー」になった子供たち、という副題が示すとおり、ティーンエージャーの子供たちがハッカーとなるまでの生い立ちや考え方、現在までを縦断的に追ったルポルタージュ作品です。

 ハッカーというとすでに悪いイメージがついているかもしれないけれど、もともとは「コンピューターに精通している人」を指す言葉であって、ネットワーク上で悪さをする人を指すわけではない(悪いことをする人は「クラッカー」なんて言い方をされたりするんですが、この辺の定義はGoogleとかで検索してもらった方がよりわかると思います)。ので、いろんなオンラインサービスにDDoS攻撃を仕掛けてネットワークをダウンさせたことで有名な「マフィアボーイ」の事例など、いわゆる「ハッカー」というスティグマ的な存在から、逮捕される前に足を洗った事例まで、幅広いレポートが載っています。

 大学院時代、ミクロ社会学的なアプローチで人々のライフスタイルを調査し、エスノグラフィー(「民族誌」)としてまとめて、特定の社会理論でそのライフスタイルを分析する、という研究をしていたせいか、いわゆるルポルタージュ的な作品を読むのは結構好きです。特にこの作品は、対象者がコンピューターに「ハマる」前の生い立ちから追っているところがおもしろいところ。日本で典型的な「コンピューターオタク」像って、「部屋に閉じこもって朝までPCの前でコンピュータをいじっている」っていうものだと思うし、こうしたイメージが「ハッカー」のイメージとつながっているんじゃないかな。こうしたイメージの連鎖は決定的に間違っていると思う。たしかに幼い頃に両親が離婚し、放っておかれる中でコンピューターに目覚めるという例もあるのだけれど、スポーツをし、ふつうに人間関係を保っているような子供がハッカーとなる事例も多く報告されている。ハッカーという人格が、特定の環境の中で特殊に育った人ではない、ということがよくわかる。

 ハッカーという存在について書かれたあらゆる本・テクストに書かれていることは、「Knowledge is The Power」、知識は力なり、ということ。そしてその知識を、能力のある人間で共有することでより大きなことができるようになる。知識を持つ仮定には、家にあったビデオを分解してみて、その動作からいわゆる精密機器がどのような形で動いているのかを確認したことをスタートして、それが単一の機器からネットワークに存在するあらゆるコンピューターに拡大していく。単純に言うと、コンピューターという客体に対して非常に強い探求心を持った人がハッカーとして育ち、ネットワークを通じて知識を共有し、自分の知識を拡大していく。そして閉じられたサーバやネットワーク機器に不正に進入していろいろとやってみるようになる。やっぱり根は「好奇心」なんだとおもう。

ひとつひとつの事例は少し文章量と説得力に欠けるところがあるのは不満なんだけど、時系列的に事例を追えていることが、この本の意義だと思う。もう一つのこうしたハッキングルポルタージュの大作「カッコウはコンピュータに卵を産む〈上〉」に比べると、後者はハッカーという人間に重点を置いてまとめているのに対して、後者はハッカーのやったことと管理者の戦いがその詳細な戦法も含めて記載されている点で対比して読めるのがとても興味を引きます。

どちらもなかなかな本なので、読んでみてもおもしろいと思います。とくに「カッコウはコンピューターに卵を産む」はサイバーミステリーとして十分楽しめます。両本とも、ぜひ読んでみてほしいです。

「問題な日本語」 北原保雄編 大修館書店『問題な日本語』北原保雄編

この本については電車の中吊り広告を見て気にはなっていた。とくに最近喫茶店のお姉ちゃんとの会話。

おいら「アイスコーヒーをMサイズで、あと〜、まあいいや」
店員は怪訝そうに「アイスコーヒーでよろしかったですか?」 
これはいいんです。これは。

電話「○○さんいらっしゃいますか?」
お姉ちゃん「○○はただいま会議中でございまして、よろしかったでしょうか」
これはだめなんです、これは。
上の例では僕がアイスコーヒーを頼んで、その後何か別のものを頼もうと思って悩んでいて、結局やめた。だからおねーちゃんは「よろしかった」という過去形で僕に尋ねた。それはおかしくはないと思う。
問題は下。電話したらいなかった、それはいいんだけど、それに対して「よろしかったでしょうか」といわれてもなんと答えていいかわからへんやん。

おもしろい本かもなあ、と思っていたところ、ATOKの箱の中に無造作に入っていました。どうもATOKについている明鏡国語辞典の編者がこの本の編者「北原保雄」氏だったんだね。おもわぬおまけでこの3連休に読んでみました。
 やっぱり日本語っていうのは、使われ方によりおかしいと思われた言い方が慣用的に利用されるようになるってことがとても多い言葉なんだと思います、

なかなかおもしろい本なので、国語やおねーちゃんたちの言葉になんかしらの違和感を感じている人、小さな娘さんを抱えていて、将来あんなしゃべり方をする子にはなってほしくないと思う親御さんなんかは読んでみるといいかもしれません(笑)。