Movie & DVDの最近のブログ記事

ソフィア・コッポラ マリー・アントワネットお久しぶりでございます。いろいろとばたばたしておりまして、なんと2ヶ月ぶりのエントリーになってしまいました。ただ復活するのも何なので、ちょっとデザインを弄りました。気を取り直してゴー。

 さて、復活一発目のネタはソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』です。『ヴァージン・スーサイズ』も『ロスト・イン・トランスレーション』も見たけど、フレームの組み方、音楽との相乗効果、ストーリー、申し分無しでした。やっぱりジェネレーションX世代なんだなと。僕らの世代の感覚なんだと思う、ポップなんだけど、全身をその中に没頭させることができないあの感覚が。んでもって、そんなソフィア・コッポラが「運命に翻弄された凡人」マリー・アントワネットを描くというのだからこれはもう楽しみ。今回もトレイラーで使われているのがNew Orderの「Ceremony」と、すごく楽しみ。

 ちなみにマリー・アントワネットの本は何冊か読んでいるけど、伝記としてはツバァイクの『マリー・アントワネット(上)(下)』が秀逸。伝記だけに、全体が三人称単数でかかれているので、「もっと感情移入して読みたい!」というのであれば、王妃と下女というキャラクターの対比でストーリーを展開している遠藤周作の『王妃マリー・アントワネット(上)(下)』がいいと思います。

 いやあ、期待大。とはいえ、映画って見ている間はタバコが吸えないんで辛いだよなあ(笑)。DVDが出たら即見ようっと。

機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛

正直な感想、「やっちまった...」。なんでこんな終わり方にしたのだろう、そんな感じ。

 そもそもZガンダム自体、後半はエゥーゴ、ティターンズ(バスク陣営・シロッコ陣営)、アクシズとが入り組んで、仲間になったり離れたりでかなりストーリー展開がややこしい。それなのに、細部の描写を全部省いているものだから、とにかく展開が性急すぎる。ついて行けない人もいるのでは?リアルタイムで見ていなかった人にもみてほしい、とIの公開時に言っていたけど、これではストーリーを把握するのも無理ってもんだよ。

 各キャラクターが逐一巡視していくシーンはそれなりに丁寧に書かれているものの、キリマンジャロでのフォウのエピソードとか、ロザミアのサイコガンダムMk-IIとか、その辺のエピソードはすっかりと省かれています。だからなのかな、TV版では次々と亡くなっていく戦友たち、そしてカミーユが心を寄せた女性たちの悲劇。それが最後に彼の精神崩壊へとつながっていったのだと思うのだけれど、けっきょくそのあたりの描写を省いたおかげで、カミーユを精神崩壊させるわけにはいかなくなっちゃったのかもしれない。初代ガンダムからZガンダムには、「魂が重力に引かれる」、「分かり合えた心から離れられなくなる」というテーゼが少なからずあった。そのテーゼを一気に破壊するようなラストシーン。ある意味では衝撃的なラストなのだけれど、あそこまで終わり方を変えられてしまうと、正直辟易してしまう。

 はっきり言いましょう。Zガンダムを知りたいのなら、映画3本をみるよりも時間はかかるけど、TV版のDVDを一つ一つみていった方が、世界観を崩さずに済みます。いくら「新訳」というサブタイトルがついているとはいえ、すべてを無に帰す終わり方をさせてしまったこの映画版は、正直まったく別のモノです。IIまではそこそこ納得できる出来になっていただけに、よけいに残念でなりません。。。

かもめ食堂

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かもめ食堂 小林聡美 片桐はいり もたいまさこ風邪による胃腸炎で体調崩し中...。

体調崩す前の土曜日に、久しぶりに映画を見に行ってきました。実は最初から映画を観ようという気があったわけではなく、
「さてどうすっか」
「映画でも観るか」
ってな感じで見に行ってきたわけで。そんな感じだったので、下調べは全くなし。携帯片手に、「あ、なんだこの「かもめ食堂」って、おもしろそう。小林聡美、もたいまさこ?じゃあ、「やっぱり猫が好き」風の映画?じゃあ、おもしろいな、きっと」ってな感じ。
場所は、渋谷シネ・アミューズ

ネタバレ情報を含むストーリーは後回しにするとして、観た直後の感想としては、「スローな映画」ということ。ここでいうスローとは、テンポが悪いとか、グダグダだということではなく、「スローライフ」と同義語の「スロー」です。なんていうかこう、観ているだけでほのぼのしてきて、自然と笑いが混みあがってくる、そんな映画に仕上がっていました。

 原作は群ようこさんの本のようで、監督も荻上直子という女性の監督。スローさが押しつけのスローではなく、ほんとうに自然な感覚を受けたのは、やはり女流作家・女流映像作家のなせる技なのかも。

 ドンパチしたり、人が死にまくる映画もまあエンターテイメントとしてはありなのかもしれないけど、そんなものはアメリカ産のもので十分だ。やはり日本の映画って、こういう感覚的ものに訴えかける表現で勝負していくべきなのかななんて思ったよ。

 それにしても小林聡美はすごい。もたいまさこや片桐はいりといった、画面に出てくるだけで存在感を発揮しまくる女優の中にいても、全然没個性にならない。むしろ、そんな彼女たちをより引き立たせると同時に、その彼女たちを超えて演技をする力を持っていると思う。DVDが出たら、手元に置いておきたい、そしていつかほのぼのしたいときに観たい、そんな映画でした。

以下はネタバレになりますので、いつものようにご注意を。

小林聡美扮するサチエは、フィンランドの一角に「かもめ食堂」をオープンさせる。コンセプトは「気軽に入れる食堂」。だが、なかなかお客が来ない。はじめてきた客は、日本かぶれの青年、トンミ・ヒルトネンだった。彼にガッチャマンの歌の歌詞を教えてくれといわれたサチエだが、どうしても思い出せない。本屋で出会ったミドリに、ガッチャマンの歌の歌詞を聴く。それが縁となりミドリはかもめ食堂を手伝うようになる。

 ミドリがきてから、かもめ食堂には少しずつ人が来るようになった。が、かもめ食堂のメインメニューである「おにぎり」を注文してくれる人はなかなかいない。バッグをなくして途方に暮れたマサコ(もたいまさこ)や亭主が逃げてしまって自暴自棄になったおばさん、おいしいコーヒーを入れてくれるヘンな親父など、いろいろな人がかもめ食堂に集まってくる...。

アップルシード

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アップルシード Appleseed 士郎正宗アップルシード(原作:士郎正宗)

 士郎正宗が1985年に発表したデビュー作を、『ピンポン』の曽利文彦プロデュース、『バブルガムクライシス』の荒牧伸志監督でアニメ化した作品です。発表された当時から、「ちょっと観てみたいなあ」なんて思っていたんですけど、なかなか観る機会に恵まれませんでした。が、無職で暇になったので、レンタルショップ「GEO」の月例半額日にあわせて(笑)借りてきました。

 まあ、簡単に言うと「アニメ」ということになるのだけれど、この作品では、リアルな人間によるモーションキャプチャーを3D化したもので、いわゆる「アニメ」とは異なる奥深さのある映像を作り出しています。まあ、このようなフル3DCGだと、通常のアニメーションと比べるとかなり「ヌメッ」とした絵作りになるので、この辺は好き嫌いがあるところかもしれないです。リアルさを求めすぎて、逆にアニメーションの良さを失ってしまっている観もあります。ただ、やはり背景とかはものすごくキレイだし、スピード感のあるシーンではCG特有の表現を使うことができるので、かなり見応えがありました。最新技術の見本市、といった趣です。

 『攻殻機動隊』のシリーズもそうだったけど、士郎正宗原作の作品にはかなり独特な世界観がありますので、その世界観にどれだけ共感できるかが、ある意味では作品の解釈とか感想に大きく関わってくるわけです(まあ、これは彼の作品だけではなく、アニメーション全体にいえることだと思うけど)。この作品のテーマは「人間の業の深さと原罪の償い方」といったところかな?かなりクリスチャンよりのテーマなのかもな(笑)。けども、日本のアニメーションが海外で「ジャパニメーション」なんて言い方をされて、かなり評価が高いのは、アニメーションの制作段階で作るこうした奥深い世界観によるところが大きいのだと思う。『AKIRA』、『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』、いずれも独特の深い世界観を、事前知識がなく観ても感じられるようなストーリー展開をしているし(エヴァはちょっとスノッブな感じが強いけどね)、やはりそれが日本のアニメーションの文化なのだろうと思う。「独特の世界観」をうまく表現している作品として、この『アップルシード』もまた、ただおっぱいがでかくて大きな目をした女の子が変な言葉をしゃべるような同人系アニメ(笑)とは、一線を画す作品だと思ってます。これらが「アニメ」という同じ枠で括られるのもいい加減どうかと思うしな...。

さて、ストーリーの方ですが、ネタバレを含むので、以下は注意して読んでくださいませ。

主人公デュナン・ナッツは、突然、兵器の軍団に襲われる。危機一髪、というところに、E.S.W.A.T.と呼ばれる兵士たちが現れ、彼女を「オリュンポス」と言われる世界へと連れて行く。オリュンポスは、人と人のクローンから生まれた「バイオロイド」が、その種の保存のためにコンピューターと人間の完全合議制によって共生する平和の都だった。

 新人類として人工的に作り出されたバイオロイドは、怒りや愛情、生殖機能といった人間の生得的な感情・機能をコンピューターによって統制され、人間と共生できるようになっていたが、そのバイオロイドを驚異と感じる人間が軍部の中にいて、バイオロイドを管理するコンピューターに対してテロを仕掛ける。このテロにより、バイオロイドは延命措置を受けることができなくなってしまう。そのため、バイオロイドの生殖機能を復活させることがコンピューターによって決定される。が、その生殖機能の復活には、「アップルシード」と呼ばれるプログラムが必要だった。

 E.S.W.A.T.の一員となったデュナンは、このアップルシードを求め、古い研究施設を捜査に行く。バイオロイドの全滅をもくろむ人間たちが彼らの行く手を阻む。その中で、デュナンはバイオロイドの誕生と「アップルシード」について、深く自分自身が関わっていることを知る...。

ヴァージン・スーサイズ The Virgin Suicidesヴァージン・スーサイズ

順番が逆なのかもしれないけど、『ロスト・イン・トランスレーション』を買って以来、いつかは観たいなと思っていたソフィア・コッポラ監督の処女作『ヴァージン・スーサイズ 』をようやく観ました。最近はすっかり引きこもり状態なので、DVDを観る時間がたくさんあるのです(笑)。

 『ロスト・イン・トランスレーション』を観たときも思ったけど、不安や虚無感の具象化が非常にうまい。涙が出るほどうまい。『ロスト・イン・トランスレーション』はどちらかというと虚無感を持った二人が出会うラブストーリーという感じだったけれど、『ヴァージン・スーサイズ』は、とにかく虚無感、不安、孤独がテーマ。役者の表情や台詞でそれを表現するのではなく、映画というメディアを知り尽くしたかのような空間の使い方、音の使い方、カメラワークだけでそれを表現してしまう。あまり多作なタイプな人ではないみたいだけど、それだけに非常に内容が濃い。

 大まかなストーリーは下に書きます(ネタバレ注意)が、なんといっても「うまい」というか、すごいと思ったのが、男の子たちと電話で音楽を聴かせあうシーン。外出禁止令がでてから、ロックのレコードはすべて母親に処分されてしまう。彼女たちの方から男の子の家に電話をかけ、電話越しにレコードを聴かせてあげる。そのシーンの中に、不安と安心、虚無感と満足感がものすごい密度でつまっている。あのシーンは一度でも観る価値アリ。

 ソフィア・コッポラ監督は、音楽の趣味がものすごくいい。というか、僕好みというだけかもしれないけど。『ロスト・イン・トランスレーション』のサウンドトラックでは、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズが音楽を担当しているし、この『ヴァージン・スーサイズ』でも、フランスの音響系アーティストAirがスコアを担当している(サントラはこちら)。それぞれのサントラだけ聞いても、ストーリーの大筋がわかってもらえると思うよ。

以下はネタバレになりますので、楽しみにしている人は読み飛ばすようにしてください。

主人公は、リスボン家の5姉妹。父親は数学教師、母親は専業主婦という家庭で育ったすべて年子の5姉妹。「女の子はこうあるべき」という意識が強すぎたのか、末っ子が思春期に自殺してしまう。

 自殺をきっかけに、じょじょに両親は男女交際についてオープンな姿勢をとるようになるが、条件付きで認めた学園祭パーティーへの参加で門限を破ったことで、5姉妹は外出禁止令を出されてしまう。彼女たちにあこがれていた男の子と、部屋のあかりを使ってサインを送るなどして、外の世界とのコミュニケーションをとろうとするが、彼女たちの閉塞感は増すばかり。

 限界に近づいた頃、男の子たちに「助けて」のサインが。両親が寝ている隙に家出を試みる計画を知らされる。彼女の家に呼び出された男の子たちが部屋にあがってみると、姉妹はすべて自殺していた...。そして呼び出した彼女もまた、ガレージで自殺をする。

 彼女たちの閉塞感や虚無感、不安を、男の子たちの回想というかたちでストーリーを追い続ける。

 とにかく、若手の監督としては希代の才能の持ち主だと思う。今後もこの監督の作品は要チェックということで。

Betty Blue ベティ・ブルー ジャン・ジャック・ベネックスベティ・ブルー インテグラル(リニューアル完全版)

昨日の夜は、1時に布団に入ったのに5時までずっと眠れなかった。やっと眠れたかと思ったら、ひどい雷と近所の工事の地響きで10時過ぎには目が覚めてしまった。何にもすることがないので、とりあえずDVDでも借りるかと思い、母親を仕事場まで送っていったかわりに小平の仲町にあるツタヤによってみた。世田谷に住んでいたときに通っていたツタヤにもあったのだけれど、こちらのツタヤにもありました、「2枚で2,500円コーナー」。好きなCDやDVDを組み合わせて2枚で2,500円で買えるというコーナーです。そこになんとあのベティ・ブルーが!ついつい手にとって買ってしまった。ちなみに一緒に買ったのはSmashing Pumpkinsの『Mellon Collie And The Infinite Sadness』。いつか国内盤欲しいなあと思っていた名作です。

閑話休題。この映画、最初に見たのはいつ頃だったけな。たぶん、大学に入った直後の頃だったと思う。公開は1986年と意外に古い。最初に見たときには、とにかく衝撃的だった。こんな映画見たことないと思った。ストーリー、カメラワークが語る無形のメッセージ、カラーリング、すべてが最高だった。演技や台詞だけではなく、色遣いや音楽でも、多くを伝えられるのが映画なんだと、ある意味では映画を脱構築し、さらに再構築した作品だった。でも、たぶんそのときの僕はまだ若かったのだろう(実際若かったけど)、無性に悲しくなった。絶望した。それ以来、この映画は心の状態が悪いときには見ることができなくなった。あれから何年たったかな。

 以下ネタバレ注意です。

海岸沿いのバンガローに住むゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)は、過去に小説家を目指していたが、いまはバンガローの家主に管理人として雇われている。気性の激しいベティ(ベアトリス・ダル)と出会い、情欲におぼれる二人。ゾルグに小説家の道を歩んで欲しいと思ったベティは、バンガローに火をつけ、友人の家へと移る。ゾルグの小説をタイプし、パリの出版社に送りつけるが、いい返事をもらえない状況にいらだつベティ。ゾルグの小説を「下品だ」と罵った出版社に殴り込みをする。友人の母親が死に、その家業であったピアノ屋を二人でつぐことになる。そんなとき、ベティは自分が妊娠していることを悟り、二人の愛は深まっていく。

 が、ベティは妊娠していなかった。そこから二人のバランスが崩れていく。ベティは鬱状態に陥り、子供を連れ去るなどのさまざまな奇行をする。そんなベティを心から愛し、元気づけようとするゾルグだが、ベティの症状は悪化する一方だった。ついには自らの目をくりぬき、入院してしまう。ベティの入院中に、ゾルグの小説の出版が決まり、大喜びで病院にいるベティに伝えるために走るゾルグ。だが、ベティはすでに何もわからない早期痴呆にかかってしまっていた。常に一緒にいる、という約束をしていたゾルグとベティ。その約束が果たせなくなってしまったゾルグは、ベティを解放するために自らの手で彼女の命を絶ってしまう。そしてゾルグは、ベティが夢見た小説家の道を歩み始める...。

 二人が出会った頃の愛は、情欲の愛だったと思う。お互いに体を求め合い、快楽の中に見いだすことができる愛。しかしその愛は、二人が同じ年月をともにする中で、少しずつ精神的な愛へと昇華されていく。この愛情の質の変化が、実にうまく描かれている。ストーリー初期はピンクや赤、黄色など非常に派手な色遣いの絵作りをし、だんだんと自然な色合いを中心に描くようになっていく。そしてベティの崩壊にあわせて、モノクロームの世界へ。僕が映画をあまり見ない理由の一つに、映像として提示されてしまうことで、イメージの広がりが限定されてしまうことがある。だから、自分が読んだとおりに勝手にイメージできる文章の方が好きだったりする。ジャン・ジャック・ベネックスの絵は、ものすごく文学的。色の使い方、音の使い方、台詞の少なさ、行間を少しずつ読み取って、自分の中で再構築できる余裕がとても多い。いままでに見た映画の中でも、正直、これほど解釈に自由な幅をもたせた作品は皆無かなと思うほど、孤高の作品に仕上がっています。ジュリエット・ビノシュ他が主演したキェシロフスキの3部作『トリコロール』も、ベティ・ブルーがあってこそのものだったと勝手に思っています。

 やっぱり見た後は、かなり衝撃が大きかった。この作品は未公開のカットが加えられた「ベティ・ブルー インテグラル」から、さらに未公開のシーンが加えられて「ベティ・ブルー インテグラル(リニューアル版)」となっているので、185分の大作なのだけれど、ずっと食い入って見てしまう。死が終わりを意味するなら、決して見た後にハッピーな気分になる映画じゃない。死が終わりではなく、圧倒的な愛に包まれたものであるなら、それはむしろとてもハッピーなのかもしれない。

パッション ジム・カヴィーゼルパッション(ジム・カヴィーゼル監督)

『ダヴィンチ・コード』を読んで以来、僕の中で「キリスト教の真実」ブームが起こっています。学生の頃から、歴史を学ぶのは好きでした(専攻は日本史でしたが)。考えても見れば、キリストの物語というのは、紀元前から続く一大歴史ロマンなわけで、歴史学や神学などいろいろな方面からの研究もされているし、またもっと大きく言えば、現代の欧米の根幹をなすものだと考えられるわけ。僕の興味は、どちらかというと、史学的な興味です。もういい歳なので(笑)、信仰というものが人々を支配するために暗黙裏に利用されるイデオロギーの側面を持っていることは理解しています。絶対神をもたない仏教が日本の国教となっているのは、江戸時代末まで続いた日本の封建的な社会と無縁ではないわけで。つまり、王なり将軍が人を従わせるためには、「すべての人は平等である」・「神こそが救い主である」という教えを説く宗教は排除したい考えの一つであるということ。フランスやイギリスといった西欧諸国が、キリスト教を国教としながらも、王制を維持できたということは、どこかで史実が書き換えられている可能性が高い。キリスト教についてどのようにそれが書き換えられ、真実はどこにあるのか、それは一つの歴史物語として、非常に興味がわいてきた、というわけですな。

 が、一度でも聖書に目を通したことがある非キリスト教徒からすると、あの本は難しすぎる(笑)。登場人物が多すぎるし、福音書と呼ばれるものがいろいろとあるので、何を読めばいいのかもよくわからない(笑)。ので、予備的な学習として、聖書やキリストのことを平易な文章で解説してくれている聖書入門的な読み物か、映像を見てみようという結論に至りました。んでもって見てみたのが、この映画『パッション』だったわけです。

 この映画は、敬虔なカトリック教徒であるメル・ギブソンが私財を投じて作った、イエス・キリストが逮捕・処罰され、復活するまでの一部始終を描いたものです。台詞を当時の言語であったラテン語やアラム語で語らせるほど、かなりの情熱を持って作られた映画のよう。ネタバレになりますが、イエスが自分の弟子のユダによって裏切られ、十字架を背負わされてゴルゴダの丘に連れて行かれ磔にされたことぐらいはいくら無知な僕でも知っていた。そうしたストーリーを、エグイまでの描写で見せ続ける。十字架につるされたイエスが「許し給え、彼らは自分たちがやっていることをわかっていないのです」と叫ぶシーンは、非クリスチャンの僕にも、熱いものが伝わってきました。

 実際に感じられるもの、体験できるもの、合理的に説明できるもの以外をなかなか理解できない僕ですが、宗教ってそういうものじゃないんだな、と。忘れられるからこそ人間は生きていける。それと同時に、信じるものがあるからこそ、人は生きていける。すごく基本的なことなのだけれど、たぶんこれが人生を構成する絶対的な真理だと思う。それをこの映画は教えてくれました。キリスト教の真実とは何かとか、都合よく書き換えられた部分とは何か、なんてことをこのエントリの最初で書いているけど、それは単に「事実追求」という歴史学の命題に従った興味であり、キリスト教を否定するつもりは毛頭ない。どんな宗教であれ、絶対的に信じられる一つのことを持つ、それがとても尊いことなんだということを教えてくれました。史実がどうであれ、人は罪深い生き物であり、敵を愛し赦す心を持つことがその罪を購う最高の方法である、というのがキリスト教の根幹をなす考えである、ということで間違いはないかしら。

機動戦士Zガンダム? 恋人たち私事ですが、このたび仕事中に体調を崩し、医者から来週末までの強制休養を言い渡されました。人間、突然休めといわれても何をしていいかわからず、ただ毎日無駄にぼーっとしながら過ごしております。何かしようと思っても何もする気になれないので、とりあえず近所のツタヤに行って2月24日に発売されたばかりの『機動戦士ZガンダムII -恋人たち-』を買いに行ってきました。

 前回の『機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-』に続く第二部で、今作では地球上での戦いからアクシズの登場までが描かれています。戦いを中心に描くというよりも、「人と人との出会いとストーリー」とを中心に、「通常の映画のようなストーリー展開」をしたとのこと。そういう意味もあってか、今作はかなり新カットが多いし、セリフもほとんどが新しく構成されたものになっています。

 びっくりするのはその展開の早さ(まあ、単純に90分に詰め込まなければいけなかったせいなのかもしれないけど)。フォウが登場したかと思えば、ニューホンコンへの爆撃シーンがカットされすぐにカミーユと絡み合う展開になっているし、サイコガンダムとの戦闘シーンもかなり少ない。アムローララァのコミュニケーションがしっかりと描かれていたファーストガンダムの映画版と比べると、この辺の描写はかなり薄く、「ニュータイプ同士の感じ合い」がいささか性急な感じがする。このあたりもやはり「人と人とのサイドストーリー」を重視した結果だといわれればそうなんだろうけども、ガンダムシリーズの共通のテーマがはしょられているような感じがしてちょっとなじめなかったかな。カミーユ・フォウだけではなく、アムロ・ベルトーチカ、クアトロ・レコア、カミーユ&カツ・サラ、カミーユ・ファ、というカップルの描写はところどころにしっかりと描かれていて、べったべたのラブストーリーのよう。う〜ん。

 前作がDVD化されてから二部発売までの間に、TV版のZを一度見直していたんだけど、今回の作品ではかなりの声優が入れ替わっています。特にびっくりしたのはフォウの声の変更。ググっもらえばわかると思うのだけれど、どうもきな臭いことがあった模様です(笑)。そのほか、サラやロザミア、ファ、マウアーなども声優が変わっていて、最初にみたときはちょっと違和感がありました。とくにサラは声のトーンが変わりすぎていて、どうなのよ、という感じ。

 とまあ、こんなネガティブなことばかり書いているとあれなんだけども、別の作品としては十分に楽しめる内容でした。描かれるべき戦闘シーンはしっかりと描かれているしね。特に新作カットを使った戦闘シーン(たとえば地球上でのブラン・ブルタークの駆るアッシマー対アムロ・りっくでぃ明日の戦いとか)はさすがに迫力があって楽しめました。Zのストーリーの中では、カミーユが宇宙に上がり、ジェリド&マウアーのガブスレイと戦うシーンはTV版からのフェイバリット・シーンなのだけれど、あの戦いもかなり力を入れて作られていたし。全体的に新作カットの分量も前作と比べると大幅に増えているので、旧作カットとの絵の差もそんなに感じなくなったし。

 Zを映画化するに当たって、バ○ダイがガンプラを売りたいために作られた販促映画だとか、「人」に焦点を当ててストーリーを再構成し直したのはそれを隠すためのイデオロギーだとか、いろいろといわれているようですが、個人的にはそれなりに楽しんでいます。

<作品情報>
・ DVD
・ リージョン 2 (日本国内向け)
・ NTSC
・ ドルビー
・ カラー
・ ワイドスクリーン
発売元:バンダイビジュアル
価格:5,040円 (税込)(amazon.co.jpにて)

Victor XV-S33とXV-Q10

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Victor XV-S33とあるところからVictorのDVDプレイヤー『XV-S33』をいただきました。ありがとうございました。これまでうちでは、同じくVictorのコンパクト型DVDプレイヤー『XV-Q10』をつかっていたのだけれど、スペックを比較してみると、XV-S33のほうがスペックが高そうだったので、交換してしまいました。
Victor XV-Q10
具体的に何が違うのかというと、まずDACの質。DAC(Digital Analog Convertor)がS33は10bit/54MHzであるのに対して、Q10は10bit/27MHz。DVD自体はデジタルだけど、これをTVに写すときにはいったんアナログに変換する必要があります。DACのポテンシャルが低いと、DVDに記録されている画質をアナログに変換する際に落ちてしまう情報が多くなり、結果的に画質があまりよくない、ということになるわけ。二つのプレイヤーを見比べてみましたが、特にダイナミックレンジが広い映像(手前が明るく、奥が暗いような映像)の場合は前者の方がはっきりと映像が表示される。
 その他、QV-10は一度電源を切ってしまうと最初から再生するしかなかったんだけど、S33のほうにはレジューム機能(30枚まで停止位置を覚えておいてくれて、再生を止めたところからスタートしてくれるらしい)だとか、1.5倍速の再生モード、ガンマ補正ができるなど、いろいろとカスタマイズできる機能が揃っています。
QV-10は小さくかさばらないので、とてもいいプレーヤーだったと思いますが、とりあえずお役ご免という形で、S-33が壊れたときのために押し入れの奥に眠っていただくことにしました。いままで、ありがとう。

機動戦士ZガンダムI 星を継ぐ者機動戦士ZガンダムI 星を継ぐ者
発売元:バンダイビジュアル
価格:6,300円

始めに言っておきますが、僕は決してアニオタではありません(笑)。ただ、ガンダムだけは別格なわけで、きっとタバコさえあれば延々と一晩中でも語れるぞ、という筋金入りのファンなだけです。んなわけで買ってしまいました、『機動戦士ZガンダムI 星を継ぐ者』のDVDです。エントリがエントリだけに、中にはネタバレな情報も入ってますので、まだ見ていなくて楽しみにしている人は読み飛ばしてくださいませ。

基本的には1985年に放送されたTV版のカットに新しいカットを加えて再編集したもの。今作ではカミーユのエゥーゴ参加からジャブロー攻撃、カラバとの合流からシャア・アズナブルとアムロ・レイの再会までがメインストーリーとなります。この作品を見て最初に思ったのは、尺が短すぎること。なぜ90分にまとめたのかしらと勘ぐりたくなる。初代ガンダムの再編集版は1〜3すべて2時間を超える編集をしていたわけだし、その初代ガンダム(全43話)よりもTVの放送回数は7回多かった(全50話)わけだから、再編集版もそれに従って長くなってもいいと思うんだけど。ちょっとカットしすぎじゃないかしら。

とりあえず簡単にカットされてしまったところを挙げてみると、まずカミーユがジェリドに喧嘩を売って拘束されるシーン。なぜか最初からカミーユは拘束されています。まあ、これはカミーユの母親がジェリドに殺された後のマークII対ハイザックの戦いの間にわかるように編集されていますが。30番地コロニー後のライラ・ミラ・ライラとの戦闘シーンや月面でのマークII vs マラサイの戦いも全面カット。あのシーン、迫力があって好きだったんだけどなあ。エマ・シーンのエゥーゴ合流後は月には向かわずに直接大気圏突入するストーリーになっています。という感じなので、ライラ・ミラ・ライラの戦死は大気圏突入時のエピソードの中に組み込まれています。初代ガンダムの再編集版も、微妙に時間軸が異なっていたり(オデッサの作戦とリュウ・ホセイの戦死の順番が逆になっていた)していたわけで、ある程度のそういった無理矢理なつなぎを覚悟していたんだけど、ジェリドとライラ、ライラとカミーユのコミュニケーション表現がかなり希薄でした。

ジャブロー攻撃シーンは比較的忠実に描かれていたものの、アウドムラでジャブローを脱出した後にロザミア・バダムとブラン・ブルタークが同時に攻撃をかけてきたと思えば、アムロがカラバ・エゥーゴに参加に二の足を踏みながら悩んでいる心理描写などがカットされ、突然輸送機に乗りこんで参戦してくるなど、性急な編集になっていることは否めない感じ。

そのほかにも、レコア・ロンドがやけにカミーユに冷たかったり、ファとカミーユの関係性の表現が希薄だったりと、細かく挙げたらきりがないんだけど、このあたりは再編集版ということで仕方ないとは思います。という感じなので、やはり疑問は「なぜ尺が90分?」というところに行き着くわけです。少なくとも初代ガンダムの映画版ぐらいの尺(120〜130分前後)にすれば、もうちょっと丁寧な描写ができたんではないかなあと思うんだけどね。Zのストーリー自体、全作のアムロとララァのように、戦闘を通してのコミュニケーションよりも、人と人との直接的なコミュニケーションに重きが置かれていた(やけにモビルスーツを降りて直接会話するシーンが多かった)わけだから、もうちょっとそういうコミュニケーションのシーンを重点的に編集してくるかなあと思ったんだけど。

と、まあ、不満をたらたらと書き連ねたわけですが、やっぱりストーリーとしてはおもしろいものだったので、それなりには満足しています。すでに公開されている『機動戦士ZガンダムII 恋人たち』を見てみたくなったりしているので。すでに見た人からは、引くぐらいラブシーンが多かったとのことで(笑)、まあそれはそれでZのテーマだったということで。劇場に見に行くのもちょっとアレなので、はやくDVDがでないかなあと願ったりしています。